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記事: 【NEW】過去と人は変えられない──為末大氏が語る、自分を変える力(前編)

【NEW】過去と人は変えられない──為末大氏が語る、自分を変える力(前編)

スプリント種目の世界大会で日本人として初のメダル獲得者で、男子400メートルハードルの日本記録保持者(2026年6月現在)である為末大氏。現役引退後は執筆活動などを経て、現在は東京大学先端科学技術研究センターで教授として、さまざまな研究に取り組んでいる。
華々しいキャリアの裏で、実は「実社会に出てから苦労したことが多かった」と語る為末氏。その背景には、陸上競技ならではの文化や、トップアスリートだからこその「思考のクセ」があった。競技人生で培った「積み上げる力」と、引退後に直面した壁、そして実社会に適応するまでの歩みについて伺った。


姉についていった先で見つけた「走る楽しさ」

為末氏が陸上と出会ったのは、小学3年生の頃だった。きっかけは、母親でも指導者でもない。近所の陸上クラブに通い始めた姉について行ったことだった。

「姉が近くの陸上クラブに入って、僕はついて行ったんです。そこで『自分もやりたい』と言い出したらしいですね」

本人は当時の記憶を「あまり覚えていない」と笑うが、母からはそう聞かされていたという。それでも一つだけ鮮明に残っている感覚がある。

「なんか楽しそうだなと思ったのは覚えています」

競技の厳しさや、自ら判断し続ける個人競技の世界を知るのは、ずっと後のこと。純粋な好奇心から始めた陸上は、やがて為末氏を全国中学校チャンピオンへ、そして世界の舞台へと導いていくことになる。




「積み上げる」とは、身体を自動化すること

為末氏が競技人生を振り返る中で、何度も口にした言葉がある。それが「積み上げる」という考え方だ。

「私がいた世界は技術の世界。技術は反復して、体が覚えるしかないところがあります」

その積み重ねを、為末氏は「自動化」と表現する。
例えば、スキー初心者は右足や左足の動きを一つひとつ意識しながら滑るため、全身に大きな負荷がかかる。しかし、経験を積むにつれて身体が自然に反応するようになり、考えなくても動けるようになる。

陸上競技も同じだという。反復練習によって動きを身体に刻み込み、自動化していく。その土台がしっかりしているほど、さらに高度な技術を積み上げられる。「基本に立ち返ろう」という言葉が競技の世界で繰り返されるのも、そのためだ。

もっとも、基本だけを守ればいいわけではない。400メートルハードルでは、風向きやコンディションによって微妙な調整が必要になる。同じ動きを機械的に繰り返すだけでは、変化する環境に対応できない。

「ベースとなる技術は必要です。でも、環境が変われば柔軟に対応しなければいけない。その境目が大切なんです」

基本を徹底して磨きながら、状況に応じて変化する柔軟さも持つ。競技の世界で培われたこの考え方は、その後の人生や仕事にも通じる為末氏の哲学となっている。




「もうダメかもしれない」――引退を決めた“感覚のズレ”

現役引退を意識したのは、劇的な故障や大きな挫折があったからではない。きっかけは、ごくわずかな「感覚のズレ」だった。

世界で戦うため、為末氏はスタートから一台目のハードルまでの動きを徹底的に磨き上げてきた。やがてその技術は世界トップレベルに達し、自身の大きな武器となった。ところが、ある日の練習で異変を感じる。

「5秒7くらいかな」と思ったタイムが実際には5秒8。「5秒65くらいだろう」と感じた走りも5秒75だった。同じようなズレが何度も続いたという。

「その時に『もうダメかもしれない』と思いました」

為末氏は、選手にとって本当に恐ろしいのは体力の衰えそのものではなく、「感覚のズレ」だと語る。自分の身体を信じて積み上げてきた世界だからこそ、その感覚が狂い始めると、何を信じればいいのか分からなくなる。

約25年間向き合ってきた競技人生。その終わりは、目に見える大きな変化ではなく、自分にしか分からない小さな違和感から始まっていた。



「人に頼ってはいけない」――実社会で直面した大きな壁

競技人生で培った思考や習慣は、引退後も自然と身についている。しかし、それが実社会では思わぬ「壁」になることもあった。為末氏が最も苦労したと振り返るのが、「人に頼れない」という陸上競技特有の文化だ。

「陸上競技の場合、グラウンドに入ったら、人に助けを求めてはいけないという考え方が強かったんです」

試合中は自ら判断し、自ら責任を負う。それが当たり前の世界だった。そのため、社会に出ても問題を一人で抱え込み、誰かに相談するという発想がなかなか持てなかったという。

「会社では、まず上司に報告したり相談したりしますよね。でも、陸上には“報連相”という文化がありません。意思決定は全て自分ですから」

結果として、トラブルが起きても一人で何とかしようとしてしまう。後になって「もっと早く相談してくれればよかったのに」と言われることも少なくなかった。

さらに、もう一つ戸惑ったことがある。それは、実社会には競技のような「明確なゴール」が存在しないことだった。スポーツの世界では、タイムや順位という分かりやすい指標がある。目指すべきものがはっきりしているからこそ、努力の方向も定めやすい。しかし、社会に出ると「次のメダル」は用意されていない。

「どこを目指せばいいのか、ゴールを決めるのは自分。そこに戸惑いを覚えました」

数字だけでは測れない価値観の中で、自分なりの目標を見つけ、周囲と協力しながら歩んでいく。その難しさに、トップアスリートである為末氏も戸惑いを覚えたという。




失敗を繰り返しながら、自分を「最適化」していく

もちろん、戸惑いばかりだったわけではない。実社会に適応するため、為末氏が繰り返したのは、競技人生でも続けてきた「試して、振り返り、改善する」というサイクルだった。

「失敗して、学んで、反省して、次はどうするか考える。その繰り返しでした」

その過程で、大きな支えになったのがスポーツ界以外の友人たちだったという。率直なフィードバックを受け、少しずつ人に相談することも覚えた。気づけば、一人ですべてを抱え込むのではなく、周囲の力を借りながら前へ進めるようになっていた。

競技で培った「積み上げる力」は、引退後も変わらなかった。ただ、その積み上げる対象がタイムや技術ではなく、自分自身の生き方へと変わっていったのである。そして、その先で為末氏がたどり着いたのが、「過去と人は変えられない。変えられるのは自分と未来」という考え方だった。

後編では、その人生哲学と、人との向き合い方についてさらに詳しく話を伺う。

為末大

1978年広島県生まれ。スプリント種目の世界大会で日本人として初のメダル獲得者。男子400メートルハードルの日本記録保持者(2026年6月現在)。現在はスポーツ事業を行うほか、アスリートとしての学びをまとめた近著『熟達論:人はいつまでも学び、成長できる』を通じて、人間の熟達について探求する。その他、主な著作は『Winning Alone』『諦め…」を「人間の可能性と社会包摂」をテーマに研究・発信を続ける。著書に『熟達論』『諦める力』など。2026年4月より 東京大学先端科学技術研究センター 附属包摂社会共創機構 教授。

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